正伝長尾流体術部とは

 活動日時:月火水金 17時30分~19時00分
 通常は部員同士で鍛錬をしています。
 成果発表の機会があり、古武道大会に参加しています。
 また、流派にゆかりのある神社に奉納演武を行っています。

正伝長尾流躰術について

長尾流躰術(ながおりゅうたいじゅつ)は、文献伝承によれば戦国時代、武田信玄と覇権を争った上杉謙信が、武田方の武将馬場信春率いる部下の「刺刀(さすが)の術」に対抗するため、甥の長尾監物為明(ながおけんもつためあき)に命じ考案されたとされています。
当時は甲冑着用時の合戦組討術でした。やがて、江戸時代に入り、甲冑で戦う機会も無くなったため雨夜覚右衛門時可(あまやかくえもん)がこれを原型として工夫を重ね、日常護身術までの幅広い武術に改良されました。 享和元年(1801)に雨夜覚右衛門時可が11代加賀藩主前田治脩(はるなが)公に披露し、加賀藩の武術学校である「経武館(けいぶかん)」で採用され多くの侍に教授されました。
雨夜覚右衛門時可は北陸道の中興の祖(ちゅうこうのそ)と称されています。現在、金沢工業大学で当流伝書に基づき復興され正伝長尾流躰術部により伝承されています。

雨夜覚右衛門とは

加賀藩士で参勤交代で江戸に出されたとき、長尾流躰術の道場を開いていた青山郷左衛門に入門し、それを習得しました。
さらに今まで修行してきた、剣術・居合・柔術などを工夫して採り入れ、より合理的な武術に完成させました。
後に金沢に戻り、経武館で採用され、多くの武士に教授をしました。
雨夜覚右衛門については、覚右衛門の末子である石黒権左衛門輝司が野町にある本長寺に建てた「躰術中祖雨夜翁墓」の碑文に書かれています。

雨夜家について

雨夜家の祖先は、武田家の旗奉行を務めていたとされます。武田信玄より雨のときでも消えない松明の創作を命じられ、それを作り「雨夜」の姓を賜りました。